「死にたい」
「消えたい」
そんな言葉が多くの人の脳に潜んでいます。
以前の私がそうでした。
その思いが行動となって、究極には自殺にまで追い込まれる人もいます。
そのような考えをしてしまう理由は、
先天的な性格ではなく、
周囲の人の言葉や環境によって引き起こされる場合が圧倒的だと思っています。
家庭環境、友人関係…
「お前は馬鹿だ」
「あんたなんて産まなきゃよかった」
「死ねばいい」
日常的に、または突発的にでも、
そのようなマイナスの言葉を受けながら、正常に育つ人のほうが不思議かもしれません。
しかし神様は人間に対して、そのような悪の感情は一切持ちません。
主は遠くから彼に現れた。
わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに
真実を尽くしてきた。
エレミヤ書 31:3
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3:16
旧約時代から今に至るまで、
神様は全ての人を愛してくださっています。
イエス様を十字架につけ犠牲にしてまで、
また多くの殉教者を出してまで、
最後まで私たちを愛し、育て、ご自身の愛を知ってほしいと、
6000年という長い歳月を涙で過ごしてこられました。
そのような愛の対象である人間に対し、
「お前は価値がない」
「生まれないほうが良かった」
と言うでしょうか。
愚かにも人間が人間の価値を勝手に決め、
悪の言葉を放ち、ついには殺すことまでします。
結局、人間の無知からそのような現実が作られているだけなのです。
だから、自分に価値がないと思う必要性は一切ないのです。
しかし、
「あなたは生まれなかったほうが良かった」
と、神様が唯一イエス様を通しておっしゃった場面があります。
イエスは答えて言われた、
「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。
しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。
その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
イエスを裏切ったユダが答えて言った、
「先生、まさか、わたしではないでしょう」。
イエスは言われた、
「いや、あなただ」。
マタイによる福音書 26:23~25
十二弟子のひとりであるイスカリオテのユダがイエス様を裏切る直前の場面です。
イエス様は最後の最後までユダを愛し、悔い改める機会を与えましたが、
結局ユダは大金と引き換えに、イエス様を悪人に売ってしまいました。
イエス様が引きずられていったあとに正気に戻り、
後悔して自分で自分の首をつって死にました。
イスカリオテのユダはイエス様を裏切った代価として、
永遠の死亡の世界で今も苦痛を受けています。
イエス様は、神様が人間を救うために地上に遣わした救い主、キリストでした。
神様が遣わした人なので、
イエス様の言葉は神様の言葉。
イエス様を愛することは、神様を愛すること。
それと同様に、
イエス様を憎み裏切ることは、
神様を憎み裏切ることでした。
イエス様のユダに対する愛は最後まで変わらなかったけれど、
自分、すなわち神様を裏切るユダの受ける刑罰の大きさを思うと、
「むしろ生まれないで、その刑罰を受けないほうが良かった」
とおっしゃったのです。
苦痛を受けて永遠に生きるより、初めから存在しないほうが良かったと。
今の時代も同じです。
今の時代も、神様が遣わした人、キリストに出会ったならば、
その人を本当に愛さなければならないし、
また人間同士も、愛でもって接さなければなりません。
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
イエスは言われた、
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
マタイによる福音書 22:37~40
本来、「生まれないほうが良かった」人はたったのひとりもいません。
しかし、その人の心と行ない次第で、自ら「生まれないほうが良かった」人にしてしまいます。
私自身も、過去は「死にたかった」考えていた人間ですし、
今も精神疾患の立場の一人として、そのような感情と全く決別できたわけではないのかもしれません。
しかし、自分の価値を落とさず、自分を愛し受け止めてくれる存在に出会えたことが、
精神疾患を患いながらも最高の祝福と希望の中で生きているなと感じます。
神様が6000年間、人を通して教えてくださった愛によって、
全ての人が、愛にあふれた心になることを願っています。