以前書いた つまずきまくりの人生からの脱却 の対になるような記事です。
年上年下関係なく、自分に影響を及ぼす相手に対して、
「なんだその態度?」
と思うことが多々あります。
「(相手に)つまずく」「傷を受ける」
というのはついつい目上の人に対して抱きがちな感情ですが、
逆の場合もありえます。
部下が上司からストレスを受けるように、
上司も部下からストレスを受けます。
お互いそれを分かって相手を尊重するべきだな~と思います。
全く別の角度ですが、
親からの子どもに対する期待も同じだと思います。
その逆も然り。
「優秀な子に育ってほしい」
「子どもはこうであるべき」
「親なんだからやってくれて当たり前」
親からは子どもに期待を込めすぎるあまり、子どもを必要以上に拘束したり、「イヤ」と言わせない環境や態度で圧迫します。
それが原因で将来の性格、特性に大きく影響を与え、
精神疾患を引き起こし、
ついには自殺を選ぶ子もいます。
最近は虐待で死んでしまう子どものニュースが多すぎますが、
説明するまでもなく自分の思い通りにならない相手に対する抑圧の結果です。
子どもから親に対しては、
「なんでうちはこうなの!」
「本っ当に全くのわからず屋だな」
と、反発するあまり心を閉ざしてしまうとか、そういうことでしょうか…(過去の私の話)
…等々、様々に考えをめぐらしていたのですが、
「どんな相手にもつまずくな」という御言葉が出てから、面白いくらいに自分の周囲の人との間で試みの連続でした。
自分が相手に対して「それってどうなの?」と思うこともあったので、
本人と直接話して解決したりもしてました。
しかし、逆だった場合がこれまた大変。
つまり私に対して「あんた何なの?」となった事案がありました。
なんと、そうなるまでの過程が、
全てLINE上の、たった数言のやり取りで行われたことでした。
こちらは妥当な返事をしたと思うのに、私の意図とは全く違った解釈をされて、「あんたとはもう話さない」と言われ拒絶をされる始末に…。
なので、こちらとしては状況がつかめず「???」という感じ。
明らかに誤解だし、ちゃんと直接話せば解ける問題なはずなのに、関係性まですべて一方的に遮断されてしまってもうどうすることもできません。
相手が私に連絡してくるまで手の施しようがなくなってしまいました。
この間まで「りいちゃんのこと大好き」と言っていただけに、事態の急変さに戸惑うしかありません(^^;汗笑
というやり取りを経験し、鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師が「どんな人にもつまずくな」とおっしゃった理由をはっきりと実感しました。
人は誰でも相手からよくされることを願うし、自分の期待が現実になることを願っています。
でも、自分の希望、夢が全て成されるほど現実はそう甘くない。
それは誰でも分かることです。
だけど人は自分が思っている以上に何かに対して期待をしていて、それが叶わなかったときは大きく落胆し、憤る生き物なんだなって感じます。
(もちろん、相手の言葉や態度がきつすぎる場合もありますが)
鄭明析牧師(先生)に対しても、
「先生はきっとこうしてくれるに違いない」
などという期待をして、いざ先生に対面したときにその通りにならないと、
「なんで私にそんな態度をとるの?なんでそんなに冷たいの?」
とさみしく思い、
ついには
「そんなことする先生なんてもう嫌だ!失望した!神様だって信じたくない。もう信仰なんて捨てて出て行ってしまおう」
と思ってしまう。
先生を大好きで慕っていたはずなのに、その出来事があってあっという間に手のひらを返したように心が変質する…
先生からしてみたら、
「その日は徹夜で一日中仕事をして、とても疲れていたからうまく笑えなかっただけなのに、なぜそうなってしまうの?」
って、あまりにもどかしい思いになると同時に、あっけなさすぎて力が抜けてしまいます。
気付いた時にはその人はもう神様の前から姿を消しているのです。
たったひとつの小さな出来事につまずいて、永遠の幸せを手放すなんて、本当にもったいないという言葉ではおさまらないくらいもったいないです。
私は先生に比べたらあまりに小さい立場ですし、普段簡単に「主の心情を感じました」とか言わないタチなのですが、
今回の件は「先生、こんな気持ちなんだな…」
と思ってしまいました。
どんな状況、場面においても、相手は自分の思い通りに動くロボットのような存在ではないことを認識するべきだと感じます。
もちろん人格的な振る舞いは絶対的に身に付けるべきですが、それでも不完全な者同士、感情の擦れは生じてしまうことを分かって過ごしたいです。
とはいえ、つまずいたことをなかなかすんなり受け入れるのも大変なので、思考の訓練なのかもしれないですね(>_<)
またひとつ成長させてくださった神様に感謝します^^