摂理人が運転練習をしたらこうなる

 

一緒に摂理の教会に通っている大学生の弟から、

 

「合宿で免許をとれたから、運転練習に付き合ってくれ」

 

という、恐ろしいオファーがきました。

 

 

「怖い…」

という率直な思いはあったけれど、断る理由は特にないので、

「美味しいものをおごる」という交換条件付きでokすることに。

 

 

香川県の田舎で免許をとって以来、初の路上。

うちの実家近辺は細い道が多く、運転初心者には少し難易度が高いです。

 

でも、私たちは神様を愛しているので、

「命だけは助かる」

という確信のみで行ってきました。

 

 

「愛する神様、今日、運転練習の機会をくださって感謝します。

心から祈りますので、

どうか無事に帰ってこられるように助けてください。」

 

という弟の切実すぎる祈りを、助手席で笑いをこらえて聞いていたのは秘密で、

練習スタート。

 

 

開始してすぐに、

マンションの駐車場を出るところでハンドル切るのが早すぎて、

いきなり後輪を乗り上げて、ストップ。

出発まで結構時間かかった…

 

対向車とのすれ違いで左に寄りすぎて、

サイドミラーをやわらかい電線カバーにこすったり、

 

黄色信号を無理矢理突破しようとしたり、

 

大丈夫なのか…

あんまり危ないようなら、運転変わったほうがいいな…

 

と思っていたけど、

摂理のCDを流したら、

 

「神様がいるから、俺たち大丈夫だわ!」

 

と、謎の安心感に包まれたようで笑、

とりあえず任せることに。

 

 

 

そんなこんなで、なんとか目的地である彼の通う大学まで到着。

 

 

「無事でよかった…」

 

という思いと共に、神様に感謝の告白をして、練習を終わりました。

 

 

これから授業の弟を大学でおろして、

私は一人で慣れた道を帰っていきました。

 

 

 

たぶん、神様を知らなかったら、

 

「運転できたわ!オレってやっぱすげー!」

「私がいたから安心して運転できたから」

 

という会話をお互いしていたと思いますが、

こんな高慢な心を抱かずに、きちんと感謝できることが一番素晴らしいなって思いました。

 

神様がその気になれば、私たちなんて病気や災害、事故で一瞬で死んでしまうし、

「生きている」よりも、「生かされている」のほうが正しいのだと思います。

 

私も過去、仕事で毎日車を運転する中で、何度も事故に遭いそうになりました。

が、怪我もなく、今日まで健康に生きています。

 

 

 

「次は商店街(歩行者天国と化)を通り抜ける練習をする!」

 

 

という弟の意気込みに、

家族は沈黙を守りました。(LINE上で)

 

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