今朝の鄭明析牧師(以下、先生)の御言葉がとても印象的でした。
周囲の人から、傷を受けてしまった人に向けてメッセージ。
「大丈夫だ、私がいる。神様がいる。」
先生の口から出てきた言葉は、そのようなやわらかいもの。
…ではありませんでした。
「なんでそんなことで死にますか。
なんでもない人に言われたことで死んでしまうんですか。
畜生!この野郎!と悪口を言ってでも、
死んではいけません。
道を外れてはいけません。
そうしたら神様はよくやったと言います。
自分が死んだら自分だけが損でしょう。」
……( ゚д゚)…
朝の私の頭を勢いよく貫く先生の御言葉。
これを聞いた時、みなさんはどのように思うでしょうか?
なんだこの言葉遣いは…?!
牧師さんだよね…?
と思うでしょうか。
確かに強い言葉ではありますが、
傷を受けたとき、そうでもすることが自分を生かすための知恵であり、
なんとしてもその人を守りたいという、神様の愛なんだな。
と、私は思いました。
最近、ある牧師さんに、
「みんな、傷を受けて相手を苦手と思ってしまうこと、あるのではないでしょうか。
その状態で教会にくるの、つらい人も多いのはないでしょうか。」
と話をしたことがあります。
それは私自身が少なからずそういう経験があるからです。
それで、ずっと悶々としていました。
「兄弟を愛しなさいというのに、私はすべての人にそうする強さはありません。
肉体では笑えても、すべて明るみに出る霊の世界で、同じように笑うことは不可能です。
なので、この気持ちをどうしたら良いか分かりません。」
そんな祈りを神様にたくさんしました。
その祈りの答えを、先生が今朝、力強く私に与えてくださいました。
誰に何を言われたのだとしても、
心が平穏でなくなり、言葉を荒らげたとしても、
肉体の命を絶ったり、自暴自棄したり、神様を信じて愛する心を捨てるよりは、
数億倍、絶対に良い。
だからと言ってやたらと、
「畜生!この野郎!」
「あいつはいやなやつだ。大嫌いだ!!!」
と、ずーっと攻撃的な姿勢でいるのが正しいというわけではありません。
先生がおっしゃるのは、
人のせいで自分の最高の人生を奪われるくらいなら、
いっそその思いも悪口も「神様に告げて」、
歩むべき道を歩みなさい。
ということです。
どんな状況であれ、御言葉通りに生きて、人としてあるべき姿を忘れなければ、絶対に神様は報いてくださるのだと思います。
でも、時には爆弾のように衝撃的に傷を受けて、本当に教会や職場に通えなくなってしまう例もありますよね。
「なんで自分の人生が、あの人のために台無しになるんだ!」
と立ち向かえなくなった時や、正常に生活ができなくなってしまった時は、
正式に指導者なり上司なりに通告するべきだと思います。
傷を受けた人をそのまま放置する神様ではありません。
人を通して適切に処理してくださるはずです。
人は、相手の心をすべて見えないがゆえに、相手を誤解し、すれ違い、衝突することも時にはあります。
摂理にいたとしてもそうでないとしても、私たちは人間なので、完全な存在ではありません。
でも、何もかもそれを言い訳にして振る舞うのは間違いで、最大限やわらかく、知恵を持って相手に接して生きるべきですね。
そして、自分がそのつもりはなかったとしても、相手が傷を受けてしまったのなら、言い訳せずに「ごめんなさい」と言える人が本物の人格者です。
先生の御言葉で解決できないことはないんだな、と感じた1日でした。